『もう、自分がここにどれくらい存在するのかな…』
蒼い空。澄み渡る青空。この元ではどれくらいの時を過して来たのだろう?
長かったのか、短かったのか。
いや、時間など意味が無いような気がする。そんな概念なんてボクには無い。
ただ、有か無か、それだけ。
そんな無意味にも感じる時間の中でボクは透明な"そら"にたゆたい、旅をし続けていた。自身の存在に何の疑念も持たず。
ただ、在った。
空に広がるボクの存在。空気の中に私の"存在"をを伸ばす。そして大きく、"そら"を受けとめる。
ボクの体を満たしていく太陽の輝き。ボクの体を通り過ぎていく透き通った風。そして、下に広がる、広い大地、碧の森林、蒼い海。
そんな風景をただ一人見守りつつ、旅を続けてきた。
ふと思うのだけど、何時からどれくらいの間、ボクはこんな存在だったのだろうか?
途方も無い大昔、限り無く長い時間だったような気がする。
ずっと。
そう、ずっと…。
ずっと地球の姿の流転を見守ってきた。
ずっとこの星と比べると芥子粒のように小さい存在である"イキモノ"が地上で様々な営みを繰り返しているのを眺めてきた。
"イキモノ" とは言っても、ボクのような有って無いようなモノとは違って、きちんと地に足をつけた存在。ボクと違って物理的に存在するモノ。
しかし、儚い存在。些細な事で、その一生を終える存在。
だけども、その存在の生きる事の輝きは比べる物が無い、そんな感じを受ける。ボクのような、存在の意義すら分からないような存在からすると。
だから、ずっと、ずっと、その "イキモノ" 達の営みを見守りつづけた。ただ、眺め続け、見守り続けるだけだったけど。
外の世界に夕闇が迫る頃。練習室にもその兆しが忍び込みつつある頃。そんな時、ボクは一人で楽器を弾き込んでいた。今日は何となく沢山弾きたかった。事実、もう弾き出してからどれくらい経ったのだろうか?自分自身の音に満足がいかず、そして、また弾き出す。その繰り返し。もう自分自身の技量の無さに今更ながらの諦観を抱きつつ、しかし、まだ弾き続けた。
「相も変わらず下手だね〜?」
唐突な声に少しだけ驚く。
「うん…。そりゃ重々分かりきってる。ボク自身ぽんこつだしね…」
弾き続けていた手を休め、声のした方に振り向き、答える。ふと戻って自分を見返してみるとなんとまあ、酷使していた事か。全身のあちこちが微妙に悲鳴をあげていた。
「ふ〜ん…」
「それに、この先暫くは触れる事が減る事になるだろうし」
弓を置いて、肩を回しながらボクは答えた。
「そういや今弾いてたのって何? 最近良く弾いているようだけど?」
「う〜ん、ボクには分不相応の曲を無謀にも挑戦してるんだ。だから、少し恥ずかしいな…」
「そう言えば、あなたの得意な曲…十八番って何だっけ?」
「そんなのは無いって。へぼもへぼ、大へぼだしね、ボクは」
本当に謙遜の意味では無く、答える。腕が有っても無理が多いと言うのに、腕が無いボクだったら…何も言う事が無い。
「じゃあ、さっきの曲を練習して得意曲にしたらどう? 曲は聴いていて悪く無いと思ったし、それなりには弾けてた様だけど?」
「ボクにできたら、ね」
苦笑交じりにボクは答えた…。
ドアを開ける。そっと肌に当たる空気の透明な感覚。暮れなずむ空を見上げる。西の方は夜空の群青色がもう夕焼け色をゆっくりと染めつつある。あの深い蒼い空の向こう。
…あそこに、ボクは。居た、ような気が…。…記憶?
妄想だ、そんな物は。空を飛べたら良いな、とか言う夢の類の。
確かに、夢の中でも空を飛んだ事は、思い出してみても記憶には無いけど。でも、この"そら"の向こうからボクを見守るような存在が有るような気もしている。『神』とかそんな風に言われるような存在ではない。でも、何かが"そら"の向こうに存在し続けているような実感を、感じた。
空を見上げる…。吸込まれるような、星の海に浮かぶ蒼い"そら"。じっと見ているとホントに吸込まれそうだ。吸込まれて…。ボクの前世、と言う物が有ったとしたらボクって何だったんだろう?吸込まれて、飲込まれて"そら"と一体に…なる。そんな感覚をボクは覚えた。感覚…錯覚…記憶…。記憶?なんなのだろう?この実感は?
突然。いつも触れてる"そら"とは別のものが、私の存在に触れてきた事を感じた。その感触は、実際始めての物だったけれども、それが、私と同類の存在であると言う事も、相手の記憶と意思と共に伝わってきた。
"彼"も我々の存在が何であるか、という記憶は持っていなかった。ただ、"彼"はボクと違って私のような存在と時々遭遇した経験が有ったらしい。けれども、時が進むにつれてその頻度も少なくなり、とうとうこのボクに会うまではずっと長い間、この"そら"をさ迷っていた、という事だった。
『居たんだね、やっぱりまだこの"そら"に仲間が…』
『まだ?』
『そう、まだ。私には感じられるんだ。仲間…同族とでも言おうか、同族がこの世界に存在しているかどうか…。"何処に"と迄は分からないけどね』
『ふぇ〜…。でも、ボク達の仲間はこんなに居ないのかな? たぶん、地上で暮らしてる"イキモノ"と違って寿命、と言う物がボク達に有るとは思えないのに。仲間が居るかどうかって言う事も今まで思い付かなかったけど』
『理由は、有るよ。皆、私が知っている同族は皆、地上に降りてしまったから』
『どうやって? どうして? そんなに地上って魅力が有るモノなの?』
"彼"の躊躇いの伴った感情が流れてきた。
『…あなたは寂しく無かったのかな? ずっと一人で、この"そら"を旅し続ける。眼下には刹那的とはいえ、平和そうな"イキモノ"達の営み…』
『そんなものなのかな? ボクはずっと一人だったからそんな事、思いもしなかったけど…』
『そう…。でも、皆は地上に降りてしまった。そういうものに憧れて』
"彼"の発する概念は当に僕の理解を超えていた。だから、何も言えなかった。
『彼らは、"イキモノ"の輪廻の中に入りこんで…元は、今の私達のようにこうして"そら"を旅し続けていたという記憶も失い、"イキモノ"という物理的な入れ物の枠の中で必死に生きている…』
『ボクには意味が良く分からない…』
かろうじて、そう意思をまとめる。
『多分、知らない方が幸せ、だと思う』
『でも、キミは何故、皆が地上に降りていったのにこうして残っていたの?』
『さて、ね…』
『ほら、あそこに見える"イキモノ"…。"ニンゲン"って言う"イキモノ"らしいけど、ほら、分からないかい?』
或る時、一寸興味深げな感情を伴って"彼"が伝えてきた。
『…ぜんぜん』
『そうか…。あそこに居る"ニンゲン"は元は"irlhe"という名前の同族だったんだ。今度はあんな"イキモノ"になっていたんだな…』
『"ナマエ"?』
"ナマエ"とは一体? "彼"に有ってから、目当たらし事物に沢山遭遇…寧ろ、認識させられる中でもまた、新たに聞く概念だった。
『そうか、ずっと一人だったからそんな概念も無いんだね。…そう、"ナマエ"って言うのは、私達の同族にとっては自分自身の存在をこの世界に規定するものなんだよ。そう規定されない同族は、特に望まない限りはこの世界から消滅する運命に有るんだ。"ナマエ"で存在が規定されて無いって言う事はそれほどにも儚い存在であったにもかかわらず、あなたがそんなに長く存在できていたのはホントに驚異なんだけど…』
『そうなんだ…。ボクは、別に消えたいとも思わなかったし、消える事が出来るとも思ってなかったし…』
一寸だけボクは以前を想起しながら意思にする。
『それが大きいんだろうね、何もベースに無かったのが』
『…"ナマエ"って如何したら手に入れられるの?』
『誰かにつけて貰うのが普通だね。私自身も他の同族に貰ったんだ』
『…じゃあ、ボクに"ナマエ"を貰えない?』
何となく柔らかな感覚が伝わってくる。
『そう来ると思ったよ。有難く、あなたにナマエをあげよう。…まあ、若し持って無かったらあなたに"ナマエ"をあげるつもりでもあったし…』
『……』
ボクは全ての精神行動を沈黙させて、じっと待つ。
『……"eflyeryo"、とキミを名づけよう』
その瞬間、変わった。私の存在が。一から。そして、世界も…。そして自分自身が興奮と共に再構成されるのを感じた…。
「最初に楽器に触れたとき…。その興奮を覚えている?」
手にしていた楽器を手近な椅子にそっと置きながら、相手を見ずに呟く様に問いを口にする。
「興奮?」
一寸何を問われているのか分からない、と言った風の顔をして答える。
「そう、興奮…」
楽器が十分安全に置かれた事を確認し、ゆっくりと向き直る。
窓から射し込む夕日が練習室を冥みを帯びた紅色に彩る。
「ボクが最初に楽器に触れたのはキミに比べるとごく最近だけど、だからこそ覚えてるのかな。…最初に楽器の弦を自分の手で弾いた時。腹の底から、震えるようなものを感じたんだよ」
その時の瞬間を思い出す助けになるかのようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「へぇ〜。そんなものなんだ…。私はそんな事が有ったのかどうかも記憶には無いんだけど。楽器を始めたのはホントに小さい頃だったからね〜」
一寸だけ自分の言葉に照れくさげにしながら笑って答える。
「ボクも最近は感じない。寧ろその時、その数日だけだったんだけどね、それを感じたのは。…今はそれすら忘れた、ただの鋸の目立て職みたいなもの、なんて気がするよ」
唐突だった。
『一寸、私はキミと分かれてまた旅をしていく』
『え?何故?』
『まだ私達の同族が存在するかもしれないから。その同族があなたのように孤独に旅をしているかもしれないから…』
『分かったよ…。若し仲間に会えたら宜しく言っておいてね…』
『ああ。あなたも出来たら…』
『うん。ボクも探すよ。ボク達が何処から来て、何処に行くのかを知りたくなったし、仲間にも会いたいから』
『有難う。じゃあ、また会えるか分からないけど…』
『また!』
瞬間、今まで重なって存在した"彼"、"ashyeie"の存在が消え去った。そんなに長い時間、ではなかった気もするけれども…。でも、ボクに与えた影響というものは計り知れなかった。私は"彼"の存在により新たな変化を受け、そして、規定された。そこから新しい"ボク"が始まったのだった…。
しかし…。
『もうどれくらい経ったのだろう? "ashyeie"との出会いから…』
ボクはボクの存在の中の概念に形にして表現した。ホントにどれくらい経ったのだろうか?ボクらには時間の長さに対する概念は無いに等しい。せいぜい分かるのは地上の"イキモノ"がどんどん代変わって行く様…。そして、『孤独』と言う事。『孤独』とは……。ずっとそれにすら気付かずに、或る意味無邪気に旅し続けたボクが信じられなかった。
そして…いつのまにか…眼下の…"イキモノ"の世界に憧れてしまった。『孤独』の計り知れない存在感に脅かされ、痛めつけられて…。ボクは…。
そう、ボクは…気付いたら地上に居た。いや、正確には地上の"イキモノ"と一体化した、とでも言うべきか?
ボクは、見つめていた"ニンゲン"といつのまにか、一つの存在になっていた。その"ニンゲン"は"ニンゲン"であり、また、"ボク"と言う存在になっていた。お互いの自我が融合し、解け、交じり合い、そして新たな一つの存在となっていた。
ボクは、"そら"に居た時には予想もつかなかった知識・概念・経験・事物の本流に興奮し、驚嘆し、戸惑った。 でもそのようにして直面する新しいの物事、それらは自分の今までの『孤独』を吹き飛ばして余り有るものだった…。
でも、ボクは…。逃亡者だ。
まだ、仲間が残っていたかもしれなかったのに、自分に負けて、自分だけの幸せを求めて、去ったのだ。
でも、もう何が出来よう?…何も出来ない。
ただ、"そら"を見上げ続ける事位しか…。それも所詮、ただの自己欺瞞であるとは分かっていたが…。
そしてそうこうして居るうちにボクは、当然の如く輪廻の渦に呑まれた。
ボクの記憶や後悔を奪い去るその渦の中で、ボクは、何を願ったのだろうか?
「『十八番』、かあ…」
ぼそっ、と何気なく口をついて出た言葉。ボクの出来る事、と言えば…何も無いけど…得意な事すらないけど…誇れる事すらないけど。
でも、出来る事は一つだけ有る。"そら"を眺める事。"そら"を感じる事。"そら"に向かって意思を投げかける事。それが何の意味が有るかなんて全然知らない。でも、それがボクに出来る、ボクにしか出来ない事のような気がするから。多分、それが、ボクの、ボクに連なる存在の後悔。
全然理由には無いけど、そんな事をボクは感じた。そして、違和感無くそれを受け入れている自分の不思議さも。
「…ょう! ぼーっと突っ立って何やってるの?」
はた、と自分の名前が呼ばれている事に気がついた。
「なに空を見上げてぼうっとしてたの?そんな所でそんな事してたら、ただの怪しい人だよ?」
正気に戻ってさっきまで自分がしていた事を想像してみると、傍目には確かにかなり怪しそうだと言う事はしみじみ実感。
「…確かに」
さすがに若い(…とは言えないかもしれないが)この歳で、そんな事をして警察さんに職務質問されるのも恥ずかしい事だな、とも思った。
「何か考えていたの?」
一寸不思議げな顔をして問いかけてくる。
「…ただ、この"そら"の向こうに、マンボウのように漂い、旅を続け、そしてボク達を見守り続けているような存在が在る、なんて事を想像してたんだ」
言ってみてから気付く。絶対に正気を疑われてしまう。別に疑われても、自分自身は構わないが、心配を掛けるのもなんだし…。そう思い、即座にボクは打ち消す。
「絶対有得ないおとぎばなしだっては分かってるけどね」
「…!」
ボクの言った事に一寸だけビックリしたような表情をする。そして、ゆっくりと真面目な顔に戻って戸惑いつつも言葉を手繰る。
「…私も時々そんな事を夢想する事、有るよ…」
ボクが今度はビックリする番だった。馬鹿にされる…良くてからかわれると思っていたのに、真面目に返されるとは思っていなかったから。
「そうなんだ…」
そうとしか答えられなかった。何故か。妙な興奮と共に。
「彼らは旅を続ける存在なんだと思う。遠い過去から未来永劫に渡って」
「そして、私達を見守り続ける…」
驚くほどのイメージの一致に喜び、しかし驚きつつボクは言う。
「なんでこんなに意見が合うんだろうね? いつものキミとは全然違う風に」
「何か本にでも有った物語だったのかなあ?」
何となく釈然としない風に首を捻る。
「一番順当な説明が有るよ、ボクには」
ふと思いついたボクの考え…。
「なに?どんなの?」
「その"そら"にいる存在の生まれ変わりがボク達って考えれば万事OK!」
「そんなバカな〜」
そんな夢みたいな事なんて有る筈が無い。ボクはこう見ても現実主義者だし。現実主義者だからこそ夢を望むっていう部分が有るのかもしれないけど。
そして、分かれた後、また何となく、殆ど宵の闇に呑まれ一層輝く星がハッキリとしてきた"そら"を見上げる。
ボクの選択は正しかったのだろうか?間違っていたのだろうか?
でも、ボクはこうして此処に"規定"され、存在する。だから、後ろに振り返り続け過ぎては、いけない。
前にしか道は、ボクには無いのだから。