自分は過疎の農家の長男としての躾やらの周囲環境の下、育ってきた。
そのせいか、どうも反抗とか気概って物とは少し遠い人間になった気がする。いや、それが悪い事だって思っている訳じゃない。またそれにかこつけて自己弁護をするつもりも無い。それに今はそれが本題じゃない。
私がどんな少年だったかってことを軽く表現したかっただけ。
ありていに言えば、引っ込み思案の大人しい少年時代を送っていたという訳で。
ところで、私の実家の町(実質は村だが)は背後に一寸した山並みを背負って海に面している。だから開けた部分も余り多くは無く、大概はちまちまとした水田とそれに付随した集落が山の合間に有るというような感じの場所であった。
私の実家の付近も例外では無く小山に囲まれた集落で、朝は日の出から暫くしないと太陽が顔を見せないし、夕は早くから山の影に集落が包まれる場所であった。
さて、本題のテーマに話を持っていこうか。
自分は少年時代余り外にも出ず過ごしていたと思う。そこそこの本が有ったせいも有るけれど何より、羽目を外しちゃいけないって事を無意識に自分を縛り付けていたのかもしれない。いや、寧ろ何事にも臆病…だったのかもしれない。
そういう自分だったが、晴れた日の昼下がりとか集落を囲む山並みの向こうを部屋の窓からぼんやりと眺める事は有った。
風に流れて色々な姿を取る雲に見入ったり…。
向いの山からゆっくりと伸びて来る飛行機雲をボーっと眺めたり…。
向こうの山のふもとを歩いていく人を目で追ったり…。
でもそういう中でずっと心に引っかかっていたのは向いの山並みの山頂にある一風変わった形の樹であった。樹種は松。普通の大きさの松の樹であるのに、形が盆栽のような或いは浮世絵に有るような演技がかったフシギな形をしていた。そしてその樹は空を背景にしてそのフシギな形を主張していた。その山は基本的に雑木ばかりの何の変哲も無い山だったので尚更自分の目を引いたのだろう。
そのフシギな形の樹は、多分幼稚園時代から私の心の中を占領していた様に思う。家の周囲と幼稚園往復の生活の中、そのフシギな形の樹は私の心の気付かないところにゆっくり根を張って、いつのまにか今の生活とは違う異世界を象徴するような存在になっていた…というのは言い過ぎだろうか?
ただそうはいったものの、回りを気にする性格持ちであった自分はその事を周りに言い出せもせず、また、実際に近くまで行ってみようとも思わなかった。
直線距離でも数百メートル位しか離れていない山の頂上の樹なのに。
ただ、言葉で表現するのは確かに微妙だが、その樹の存在が幼心に何かの影響を与えていたのは間違いない、と思う。
でもその樹に愛着や親近感が湧いた、とかそういうものでは決して無い。ただ、普通の平凡な日常とはかけ離れたもの、それをその樹に感じ憧れた、のだとも思う。
そんな心の中のフシギに一歩近寄ることが小学生時代に起こった。
その頃購読していた某小学生向け科学雑誌の付録に、ちゃちとはいえ望遠鏡がついてきたのである。元々そういうものに憧れていた私は雑誌すら読まずに望遠鏡を組み立てて、あちこち見始めた。まずは部屋の反対側の壁から…裏山の木やら…向いの家やら…空を飛ぶ鳥や雲やら…。
そして、とうとう前々から気になっていたその『フシギな樹』をその望遠鏡の対象に選んだ。
遠くから肉眼でしか眺めることの無かったそのフシギな樹。その奇妙奇天烈と感じたその形。異世界の象徴みたいなものにまでなっていたその樹。
それを自分を新しく手に入れた武器で見つめた。
そんなにたいした倍率でもなかったのに、プラスチックレンズの安っぽい虹色の色収差がまとわり付いたのに、ちゃちな構造と細工の腕のせいでぶれまくった視界だったけれども。
肉眼とはまた違ったその姿に自分はさらに好奇心とフシギの感情を掻き立てられたことを覚えている。
しかし、実際その足で近くまで行って確認しようとは思わなかった…いや、思いもしなかった。多分自分の上記の性状もあったのだろうが、フシギ・非日常の象徴として近寄ることすら考えてなかった…のかもしれない。
ただ、自分がやったことはその望遠鏡その他のレンズを色々組み合わせ、遠いものをできるだけ近く、そして鮮明に見ようとする事だった。そして、その調整の最終目標はそのフシギな樹。
無意識に感じ取っていた枠の向こうにあるものでも夢想していたのだろか。
そして。
中学生時代。
フシギな樹を見る事は以前より少なくなっていた。なぜか。
何かから一歩踏み出す時期、だったのかもしれない。
日差しの良い或る日、ほけーっとフシギな樹の方を眺めていた時にふと、近くに行ってみてみようかなという考えが頭をよぎった。
今になって思えば何故その時までそう考えもしなかったのかという思いもあるが、その頃はごく自然な感じで疑いも何もなかったと思う。
そして思い立ったは吉日、自転車で向いの山のふもとまで乗り付け、ガサゴソと小山に登り始めた。山自体は高さが10〜20メートル程度のものだったので別に道を探すまでも無く一直線にぐいぐいと登った。
刺のあるくさむらや邪魔する潅木を力づくで掻き分け…。
むわっとするくさいきれやひんやりとする木陰の空気も突き抜け…。
落ち葉でガサゴソ云う地面を足を取られないように踏みしめ…。
ともすればずり落ちそうな坂で手掛かりを求めつつ…。
山登りって云うのはえてして微妙な興奮を伴うものだと思うが、このときはまた別の心のざわめきが有った。
あと、少し、すこし、スコシ…。
どんどんと見える空が広がっていく…。
背後の集落の気配が風のように次第に遠く感じられていく。
そして。
頂上だった。
ちょうどその樹が、在った。
実際にそれを見た最初の感想は、はっきり云って言葉には出来無いものであった。
その松の樹は確かに形こそはフシギで奇妙奇天烈な形だった。近くで見ればそのフシギさは心を掻きたててくれるものだった。
でも幹もはも赤茶け……枯れかけていた。周りには赤茶色の落ち葉が散らばり、幹には小さな穴がボツボツと開いていた。
正直、意外、だという感情も沸いてきた。
それまで心の一部で、非日常の象徴みたいだったものが、実際はただの枯れ掛けだったってことに。その頃すでに自分は目も悪かったし、自作望遠鏡も色収差の塊だったので気付くことも無かったんだろう…。
普通そういう時は喪失感でも感じるものじゃないかな、とか今になって回想すれば思ってしまうわけだったが、でもその時は何もその類の感情は感じなかった気がする。
多分、その頃から私は冷め始めたのかもしれない。
ぼーっと、その枯れかけを見回しながら、学校で暇さえあれば図書館で本を読んでいた私は、多分それが松食い虫とやらによるものなんだろうなぁと推測した。
そして、ぼーっとその枯れ木に身を預けて眼下に見える自分の集落を眺めた。
その眺めはいつも部屋から眺めるものとは違って見えた。
今居る此処が日常で、向こうが非日常であるかのように。
そして小一時間ほどそこにいた後、自分は山を降りた。
日常が非日常に…。
非日常が日常に…。
それ以降その樹を眺める事は余り無くなった。
実家を離れる数年の風雪の中でもその樹はそのままの姿を遠くから残していたので、幹自体はまだ丈夫だったのかもしれない。近くで見たらもうすでにぼろぼろなのかもしれないが。
ここ数年実家に戻ってない自分だが、最近ふと実家の付近の風景を思い出すことがある。
そのフシギな樹だった枯れた樹も今ではそれらの風景の一つとなってよみがえってくる。
別に故郷がどうしても懐かしいってわけではない。
私はそういう部分は冷めている人間だから。
でも、なぜ時々その樹は心に出てくるのだろう?
なんともよく分からないものである。
微妙な腐れ縁になってしまっているのかもしれないな、と、一寸苦笑する自分を此処に発見するのだ…。